最高裁判所第二小法廷 平成2年(行ツ)151号 判決 1991年3月22日
山梨県東八代郡中道町上曽根字朝日四〇一一番地
上告人
株式会社 宗家日本印相協会
右代表者代表取締役
坂本尚光
右訴訟代理人弁護士
三宅正雄
同弁理士
櫻井守
神奈川県中郡大磯町大磯一三四二番地
被上告人
太田倶資
右訴訟代理人弁護士
青柳昤子
右当事者間の東京高等裁判所平成元年(行ケ)第二四七号審決取消請求事件について、同裁判所が平成二年五月二九日言い渡した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告の申立てがあった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人三宅正雄、同櫻井守の上告理由について
商標登録の不使用取消審判手続において登録商標権者である被上告人が登録商標の使用の事実を証明するものとして提出した甲第四号証の用紙の製造及び使用の日時を、その審決取消訴訟において被上告人が提出した証拠をもって認定し、本件商標は、本件審判請求の登録前三年以内に、商標権者によって、その指定商品である印刷物の包装に付される態様で使用されていたとした原審の認定判断及び所論の点に関する原審の措置は、原判決挙示の証拠関係及び記録に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。所論引用の判例は、事案を異にし本件に適切でない。論旨は、採用することができない。
よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 木崎良平 裁判官 藤島昭 裁判官 香川保一 裁判官 中島敏次郎)
(平成二年(行ツ)第一五一号 上告人 株式会社宗家日本印相協会)
上告代理人三宅正雄、同櫻井守の上告理由
原判決は、左記の点において、違法であり、破棄されるべきものと思料する。
第一点 原判決は、原審裁判所として、法律上遵守すべき審理範囲を逸脱して認定した事実を基礎とするものであり、違法である。
そもそも、原審裁判所は、特許庁がした行政処分としての登録商標の不使用による取消の審決に違法の点があるかどうかの審理、判断をすることをその職務権限とするものであることは、三権分立の基本理念に照らし、まことに明白なところである。しかして、行政処分としての該審決に違法があるかどうかは、審決がされた時点、すなわち、厳密にいえば、審理終結通知が関係人に到達した時点において、判断されるべきものである。
しかるに、原審が、原判決において、被上告人(商標権者)が法定の期間内において本件登録商標を使用していた事実を認定するに当たり、最有力の証拠として援用したのは、特許庁の審理段階では、影も形も見なかった、原審の訴訟手続において、始めて、提出された甲第一七、第一八号証であった。上告人(被告)は、原審において「特許庁段階で提出した各証拠では、被上告人(商標権者)が本件登録商標を使用した事実は認められない」とした本件審決の認定を争うのかどうか釈明を求めたが、被上告人は、この点を明らかに争わなかった。上告人は、本件口頭弁論の全趣旨に徴しても、被上告人において、この点を争う余地は、全くないと判断していたので、原審裁判長の、「被告(上告人)は、何も書かなくてもよいでしょう」という発言(調書にはない)も、原告(被上告人)が新しい証拠を提出しても、無駄であるから、被告は、何もいう必要はなかろうという趣旨と理解したが、いまにして思えば、当時、原審は、すでに、新しく原審に提出された右証拠により、本件登録商標使用の事実は証明されたとの心証を形成していたものと推測される。このような状況の判断に甘さのあったことは、我々上告人関係者の不敏・不明の致すところであるが、このような、特許庁段階では全く予想もしなかった証拠に基き、「審決は誤っている」と判断された場合、特許庁関係者としては、これをどう評価し、特許行政の反省の資料とすることができるのであろうか。特許庁としては、みずからの処分の誤りを反省するどころか、おそらく、「自分達としては、当時の証拠関係の下において、使用の事実を被請求人が証明することができなかったから、第五〇条第二項本文の命ずるとおり、処理したものであり、どこにも誤りもなければ、まして、違法といわれる筋合はない」と考えることは、容易に推察できることである。忠実に法を遵守した行政処分を咎め立てすることは、三権分立の原則からいっても、裁判所といえども、してはならないことである、と信ずる。我々が懸念するのは、その点であり、原審判決は、明らかに行政に対する、いわれない干渉をあえてするものといわさるをえない。
しかも、その結果、さなきだに重負担に喘ぎ続けている特許庁商標関係審判言に、理由もなく、更なる負担を課するものである。本年五月三〇日発行の特許庁公報によれば、商標関係審判請求事件の未済件数は、平成元年度二三、四八八件。一見余り大きな数字には見えないかもしれないが、同年度の請求件数は、四、一六四件に対し、既済件数は、取下まで含めて、四、八六七件。請求と既済の差は、約七〇〇件。この年間の黒字で未済件数を割ると、余り人の気づかない驚くべき、大きい数字になるのである。
近年、審判官の努力により、既済は僅かながら黒字を続けている現在、原審のような不用意な審決の取消は、まさに審判官の脚を引っ張るもので、単なる理論問題以上の実害を伴うものである。のみならず、使用しない商標は、登録原簿から速やかに抹消すべきであるという商標行政が打ち出した一つの至上命令に、故なく、水を差すものである、と上告人は憂えるのである。
また、原審のように、東京高裁として、新しい証拠を取り調べ、使用事実の認定をすることとしたら、登録商標の不使用を理由とする取消審判を請求された商標権者は、審判手続では適当に流して、取消の審決を受け(改正前の商標法第五〇条は、審判請求人に不使用の事実を立証させるという不合理な制度をとっていたので、これまでの商標権者は、九〇%以上何もしないまま、安泰でいられたのが実際であった。そういう意味で、不使用による取消審判は、現行商標法施行以来、ほとんどが機能しなかったというも過言ではない。この事実も、昭和五〇年の同法条改正の大きい要因であった)。その取消訴訟で盛んな立証活動を行い、極端な場合には、本件において上告人がそう見ているように、作られた証拠書類などを提出してまで、立証に狂奔したら、東京高裁として、どうするであろうか。というより、そうなったのでは、東京高裁の審理に相当の日時を要するという一般的傾向と相まって、他人の利益、すなわち、商標選択の自由の犠牲の上に、惰眠をむさぼっていた名ばかりの商標権者に、更なる時間稼ぎをさせる結果になり、ひいては、登録商標不使用による取消審判制度を破壊する結果になることは、火を見るより明らかといえよう。元来、この制度は、他の審判制度と共に、相当の数に上る二〇年、三〇年の経歴を持つ審判長以下審判官が準司法手続といわれる、他の行政庁には、余り例を見ない厳正な手続で審理、判断するという運用によって支えられているものである。東京高裁の判決(原判決もその例であると、上告人は見ている)の中には、往々にして、我が国の工業所有権制度の中における審判制度の特異な性格と役割に気づいていないものを見受けるのは、制度発展のため、遺憾といわさるをえない。裁判所関係者のより深い研究と洞察を祈念して止まない。東京高裁がともすれば、自己の守るべき分を越えて、特許庁を中心とする工業所有権行政にまで立ち入った裁判をする傾向が、まま、見られるのは、旧憲法時代、大審院が特許庁の上級官庁の役目を果していたことの名残りであると上告人代理人はみている(それでも、当時は上告手続であり、純粋な法律問題に限られていたから、現在のような事実問題についての介入は、当然のことながら、なかったのは、流石と、敬服の念を新たにする)。新しい制度下で、裁判所は特許庁とは、無関係な機関であり、しかも、特許庁における手続が他の一般行政庁にはほとんどない特殊な構造であること、その審判手続が準司法手続といわれる裁判手続に近い厳正な手続で行われている肝要な事実に気づいていない、と上告人代理人は愚考する。
本件において、原審は、本件が、ある期間内に登録商標を、直接、権利者が使用したかどうかの証明問題という比較的単純な高標問題であるところから、容易に、新たな証拠調べ肯定の措置に出たものかと憶測(邪推かもしれない)するが、もし、そうとしたら、思わざるも甚だしい、といわざるをえない。審判事件の中には高度の通常の裁判官の知識と理解力では、どうにもならない案件もある筈であるから、できるものはする、できないものはしないという我儘は、制度として、許されるべきでないことはいうまでもない。容易に職権探知主義などが持ち出されるべき筋合ではない。
更に、原審は、原判決をするに当たり、不使用による登録取消という制度についての認識に甘さがあった、と判決文上、推測されるが、不使用取消の審判を請求するということは、止むをえない事情、例えば自分の使用したいという強い希望のある場合、窮余の策として、自分の邪魔をしている商標登録の抹消を求めるが通例であり、興味や酔興で請求しているのではない。例えば、日常電車等公共の乗物の中で見かけるように、電車は満員、老人や足腰の不自由な人が何とか席にありつきたいと思っても、隙はない。そのような状況の中で、一人の若者が自分の座っている席の隣の空席に小さい持物なんかを置いて、実質上二人分の席を占拠し、自分はタヌキ寝をきめこんで、素知らぬ態。そんな時、隣りの席を明けて掛けさせてくれと車掌に頼んだら、「いや、この人が使っていますから…」といわれたようなのが、上告人の立場である。ここでは碌に使ってもいない席を占拠しているということは、道義上(本件では法律上)非難されるべき社会悪なのである。原審は、何か財産権としての商標権の保護温存に気を使っているように見えるが、ここでは、それは間違いなのである。「証明しないとき」というのは「三年以内に…」というのと同じように、文字どおり、特許庁の手続で、「証明しないとき」であり、「認められないとき」などと拡張解釈する余地は、残念ながら、ないのである。
第二点 原審判決は、商標法第五〇条第二項本文の規定の解釈を誤り、この誤った法解釈に基づき結論を導いた違法がある。この点は、特許庁の審決の違法をチェックする原審として、最も致命的、かつ、あってはならない誤りである。原審判決は、判決書九丁裏末行から一〇丁表六行において、『商標法第五〇条第二項本文の規定は、昭和五〇年法律第四六号による改正によって、不使用による商標登録取消の審判を実効あらしめようとする立法の趣旨に鑑れば、「登録商標の使用をしていることを被請求人が証明しないこと」ではなく、「登録商標の使用をしていることが認められないこと」を商標登録取消の要件とする趣旨にほかならないと解すべきであるから、』と判示するが、右規定は、誰もがそう読むであろうように、「登録商標の使用をしていることを被請求人が特許庁において、証明しない限り…取消を免れない」と明言しているのに、確たる根拠もなく、それを否定し去って、使用をしている事実を認められないことを意味するなどというのは、何たる曲解ぞやと上告人は慨嘆する。原審は、第五〇条、とくに第二項本文の規定が改正された趣旨を全く理解しないものといわざるをえない。しかも、右法条改正の趣旨なるものとを原審が何に基づいて理解したのか、判文上、定かでないが(第五〇条の右規定改正の趣旨は、のちに詳述する特許庁編「工業所有権逐条解説八七三頁以下のとおりである)、当時、たまたま、東京高裁からの推薦により、第五〇条の改正を中心とする商標法改正小委員会の委員として、審議に参加した当訴訟代理人の一人弁護士三宅正雄の知る限り、右法条改正の趣旨が原審認定のような結果を招来するものであるとは、当時、何人も理解していなかった。おそらく原審が改正された右法条を読んで、前記のように理解したものと推測されるし、それはそれで、とやかく批判すべき限りでないが、当時、審議過程において、原審のいうような意見が出たことはない(小委員会の議事は公開されないから、いま、立案経過について、かれこれ申し上げることは差し控えるが)。
ただ、我々の理解するところを申し述べると、当時、我が国の商標界では、一部の誤った理論に患いされて、日本の制度は登録主義である(アメリカは使用主義)から…という建前から、はっきり自己の商品を表彰するため使用するという意図もなく、ともかく思いつくままに、商標登録出願をするという傾向が続いたため、商標の自由譲渡を認めたこともあって、出願が激増し、その結果、ストック商標は累増し、ために他人の商標選択の自由は害され、加えて、ストック商標を商品として、必要な向に売りつけるいわゆる「商標屋」の跳梁抜扈ぶりは、目を掩うばかりの状況であったため、特許庁は、使用しない商標は商標でないという本然の姿を取り戻すべく、(商標法第二条も、商標は商品に使用するものと規定する)使用すると称して登録を得ておきながら、使用しないのは、国家に対する約束違反であるから、(特許庁は、つとに、本条を制裁規定と位置づけていた。)不使用であったら直ちに審査官の命令で取り消す制度にすべきだという議論まで出るに至り、結局、登録後三年、更新前三年間、不使用の登録商標は、商標制度を破壊するものであるから、どんどん取り消すこととし、それに即応して、不使用の事実の立証責任を審判請求人に負わせていた第五〇条を、現在のように、商標権者の立証責任として(特許庁は、これを立証責任の転換と呼んだが、当代理人は、正常な立証責任の分配に戻っただけであり、転換ではないという意見である)、審判手続において、すなわち、取消権限を有する官庁の手続の中で、使用の事実を商標権者が立証しない限り、不使用につき正当の理由がある場合を除き(正当理由の立証も権利者が負う)どしどし取り消して、商標界からストック商標、無駄な登録商標を駆逐しようとしたのが、我々の理解する昭和五〇年の一部改正なのである(登録後三年の不使用取消制度はほぼ成案を得るまでに固まったのち、業界の要求を容れて、見送られた)。これを要するに、少なくとも、立法段階では、商標権者に厳しい責任を負わせ、止むをえないもののほか、できるだけ登録商標を少なくしようという強い決意で、それを至上要請として、改正が行われたことは、(昭和五〇年の法改正は使用義務の強化が本命であった)事実である。したがって、審判手続において、被請求人において、該登録商標使用の事実を特許庁において立証しない限り、取消を免れないのは、(そのギリギリの立場を表現するため、「取消を免れない」という言い方までしている)法の趣旨とするところであり、原審が何か審判手続以外での主張立証も許すかのようにいうのは、大いなる誤解である。法改正よりすでに十年余り、専門部といわれる原審裁判所までが、その厳しさを風化させていることは、遺憾にたえない。原判決は、「使用していることが認められないこと」が商標登録取消の要件であるというが、この場合は、いったい、何人を認定権者と考えているのか、理解に苦しむ。もし特許庁(審判長)が認定権者であるとしたら、使用の事実を被請求人が証明しないときと差別はないし、特許庁以外の者、たとえば、裁判所が認定する趣旨とすれば、法意を誤解するだけでなく、裁判所に商標行政を行わせるもので、三権分立の基本原則に違背する。使用の事実を「証明しないこと」と、使用の事実が「認められないこと」などを区別しようとすることなど、法の改正の趣旨を全く理解しない誤った解釈というほかはない。第五〇条第二項本文の明文上、明らかなように、本件商標登録取消の要件は、被請求人が審判手続の中で、みずから使用した事実を証明しないことであり、右法条は、「使用をしていることを(特許庁で)証明しない限り、取消しを免れない。」と明確に規定する。
これを要するに、最大の痛恨事は、原審が、第五〇条第二項の改正規定が、商標の登録を取り消すべきか否かのポイントを被請求人(権利者)が、審判手続において、使用した事実が客観的に存在するかどうかではなく、みずからの使用の事実を特許庁の面前で証明できるかどうかにかからしめた厳しい姿勢を理解できなかったことである。速やかに、この誤りを是正しないと、商標行政上、拭うべからざる重大な悪影響を及ぼすことを上告人代理人らは、憂うるのである。
なお、原判決は、みずからの判断の正当性を裏づけようとするのか、参照判例を挙げているが、上告人代理人らは、上告審でもない原審が前例を引用する判示の仕方を何の意味もないものとして、うとましく思うのであるが、もともと我々は、原審裁判所の判断を問題にしているだけであり、参照としてカッコ書きで挙げられた別件(昭和六二年(行ケ)第六〇号事件)に上告しているわけではないから、参照判例の当否について、かれこれ申し述べるつもりはない。我々が本件において徹底的に問題にしたいのは、そして、そのため、あえて上告審の御判断を仰いでいるのは、原判決であり、それ以外の何ものでもない。そして、仮に原審が右別件判決を原判決と同趣旨に出た先例と評価したとしても(別件は、本件とは事案を異にする特殊なケースであり、本件と同一に論ずることはできないものである。)、カッニ書きで「参照」というだけでは、原判決が有するいくつかの違法点がこれによりクリヤーきれる筈ない、と信ずる。
なお、原判決は、右法条は、「昭和五〇年法律第四六号によって改正された立法の趣旨に鑑れば」というので、この改正規定の趣旨として特許庁(実質上)から、公にされている見解のうち、本件に参考となると思われる部分を摘示すると、次のとおりである(特許庁編「工業所有権法逐条解説八七三頁以下)。
〔趣旨〕 本条は、登録商標の不使用による商標登録の取消の審判についての規定である。本条の立法趣旨は、次のように理解される。すなわち、商標法上の保護は、商標の使用によって蓄積された信用に対して与えられるのが本来的な姿であるから、一定期間登録商標の使用をしない場合には保護すべき信用が発生しないかあるいは発生した信用も消滅してその保護の対象がなくなると考え、他方、そのような不使用の登録商標に対して排他独占的な権利を与えておくのは国民一般の利益を不当に侵害し、かつ、その存在により権利者以外の商標使用希望者の商標の選択の余地を狭めることとなるから、請求をまってこのような商標登録を取り消そうというのである。いいかえれば、本来使用をしているからこそ保護を受けられるのであり、使用をしなくなれば取り消されてもやむを得ないというのである。
昭和五〇年の改正前の五〇条の規定によれば、取消審判の請求に係る指定商品についての登録商標の不使用の事実は、審判の請求人が証明しなければならないとされていた。これは、改正前の一項本文およびただし書の関係のみならず、三項において、特定の市町村または特別区における不使用の事実が証明されれば、その他の地域でも不使用と推定するという不使用についての推定規定が請求人の挙証責任を軽減する目的で設けられたということからも明らかである。しかし、特定の市町村または特別区に限っても、請求人が不使用の事実を証明することはきわめて困難であり、不使用取消審判制度はほとんど実効をあげることができなかった。ところが商標権は、もともと出願人が「自己の業務に係る商品について使用をする」ということで与えられるものであり(三条一項)、商標権者は、その商標の使用をしているかどうかを最もよく知っているだけでなく、使用をしていることの証明も容易にできるはずである。挙証責任は、本来衡平の原則によって決定されるべきであり、以上の諸事情を勘案した結果、昭和五〇年の一部改正により登録商標の使用に関する挙証責任は、審判の被請求人たる商標権者に負わせることとした。(中略)
なお、昭和五〇年の法改正以前の商標法第五〇条について、兼子一、染野義信共著「工業所有権法」(八二六頁)に次のような記述がある。
『商標登録の制度は特許制度、実用新案制度または、意匠登録制度と異なり…商標登録を通じて商標権という名称の新たな財産権の創出をのみ目的とするものではなく、商標権の設定を通じて商品流通の過程を規制し、この過程における競争関係に一定の秩序をもたらすことにある。したがって、一旦、商標権が設定されたのちであっても、その商標権の存在が商標登録制度の要請に答えることができず、商品の使用過程に対する積極的な規制としての役割を果していないような場合には、そのような商標権の存在はかえって商品の流通を阻む否定的な意味しか有しないことになる。すなわち、登録により商標権として保護されている商標が何ら使用されていないということは、商品の流通過程において積極的役割を果していないということを意味し、かえって、他人による同一の商標の使用による商品流通を阻み、そのかぎりにおいて他人の商品流通への関与を阻害していることとなる』と。
右は、商標登録の出願、ストック商標の弊が余り問題にされなかった頃の改正前の同条の趣旨の説明である。当時の登録商標の不使用という事象は、特許庁の見解としては、社会悪であり、不使用取消審決は、これに対する制裁であると位置づけていたが、また、これを放置すると、容易ならざる事態となることに対する危惧の念は薄かったといえる。また、当時は、「…使用をしていない」という状態(客観的事実関係)を問題にしていたが、すでに触れたように、我が国商標制度の健全な発展のため放任することを許さない事態に立ち到ったとの認識の下に、一挙に、立証責任を転換し(改正前は、推定規定を置いていたが、請求人の不利を救うには、役立たなかった)、使用の事実を積極的に権利者が証明したときに限り、例外的に取消を免れるという厳しい姿勢をとったのが昭和五〇年の改正なのである。原審判決は、「規定改正の趣旨に徴すれば」というようなことを判示しているが、上告人からすれば、それは単なる口先だけの説示であり、改正前の規定と改正後のそれとでは、文言まで違えている事実に全く認識を欠いているといわさるをえない。もち論、どういう事情なり、背景から改正されたにしても、所与としての法規をどう解すべきかは、裁判所が自由に判定すべきものであることは、いうまでもないが、原判決でみる限り、原審のこの法条の改正の趣旨に関する理解が正鵠を得たものでないことだけは確かなことと思料する(最も決定的なことは、原審が何に基づいて、改正の趣旨を認識したかの根拠を判示していないことである)とすれば、少なくとも原判決は、この法条改正の趣旨を正しく理解しないまま、判断をしたということにならさるをえない。(余事ながら、原判決が参照として挙げた東京高裁の判決にも、その同様の誤りがあるように、上告人は見ているが、いまここでは深く論じない。その点については、論じても意味がないからである)
第三点 原判決は、釈明権の行使を誤った審理に基くものであり、違法たるを免れない。
上告人が、原審判決について、感情的に、最も不満とし、不信感を募らせているのは、この点である。「あとは上告しかないのに、東京高裁ともあろうものが、こんな不親切なことでよいのだろうか」といのが、上告人らの素朴な、しかし、容易に消しがたい憤懣であり、不信感である。
さきに触れたように、原審は、上告人(被告)の反対意見を無視して、新たな立証を許し、人証の申出までも、何の釈明を求めるでもなく、受け入れた。上告人(被告)は、そのような訴訟指揮に不満であったが、いちいち争うのも如何かと考え、「もし相手方の申出に係る人証を採用されるようであったら、当方も、対抗上、証人の申請をします」と申し述べたところ、裁判長は、合議のうえ、「双方につき人証の取調べはいたしません」と言われた。このようにして、甲第一七号証、第一八号証(いずれも「報告書」と題する私文書)は、成立につき認否を求めただけで(倉田公証人の前で署名したという証拠があるので、形式的証拠力は争わなかった)、内容の証拠力(実質的証拠力)については、反対尋問にさらすわけではないのはもち論、上告人(被告)の見解を求めるでもなく、口頭弁論を終結し、しかも、この二つの報告書(この種の報告書が人証による直接審理を回避する目的で、作成依頼者の都合のよいことしか書いていないのは、吾人の実務経験上、知る者ぞ知る顕著な事実である。原審は、すでにこれらの書証により使用事実は明白との心証を形成したにしろ(あるいは、それなら、なおのこと)、上告人(被告)に、その反証を挙げる機会を与えるべきである。もち論、上告人(被告)としては、常法に従い、作成者を証人又は本人として尋問し、その報告書記載の誤り、不備を質問することができる筈であったが、原審は、ひとことの釈明、立証を促すこともせず(むしろ立証の希望を無視した)、そそくさと終結したのは、明らかに不親切というだけでなく、法が裁判所に求めている釈明権の行使を怠り、その結果、形式的証拠力イコール実質的証拠力という短絡的判断をし、上告人に一言の反論の機会を与えず、敗訴の判決に及んだのは、第二審裁判所として、きわめて行き届かない訴訟指揮というべく、真実を発見して事実を確定するという裁判所の当然しなければならない職責を忘却した、形式一点ばりの判決といわさるをえない。もち論、上告人といえども、裁判所が不親切だからといって非難するつもりはない。それはすんだことでもあるし、他の事件でもあることであり、仕方がないこととあきらめている。しかし、法律的にみて、釈明権不行使の違法のあることは、如何ともしがたい歴然たる事実である、と上告人は主張する。
第四点 原審判決は、「審決取消訴訟において、新たな証拠を提出援用して、登録商標を使用していたこと(「いること」は誤記?)を証明することを制限しなければならない理由はない」旨判示するが、この判示は、さきに、昭和五一年三月一〇日の特許無効の原因として新たな主張、立証は許されないとした最高裁判所大法廷判決の趣旨に違背するものであり、かつ、理由不備の違法があり、破棄を免れないものである。
特許庁段階で提出援用しなかった新たな証拠を使用事実立証のため原審で提出できないことは、すでに述べたように、原審が特許庁の続審ではなく、系列を異にする司法機関であることから、当然に生まれる結論であり、これを立証を制限すると理解することは、すでに、それ自体誤りである。絶対的にできないことをできないというのは、制限ではない。いま一歩を譲って、東京高裁における審決取消訴訟において、新たな主張、立証を許さないことを制限だとみるとしても、原判決は、何故、制限しなければならないとはいえないかの理由を明らかにしていない。「立法の趣旨に鑑れば」というだけでは、どんな趣旨に、どう鑑みたのかわからないこと、すでに述べたとおりである。理由を示さず、切捨て御免式の判示は、司法裁判所の判断としては、適性を欠く。理由不備という所以である。あえて批判すれば、原審判決は、その審理がそうであったように、上告人の審判請求を理由ありとした審決を取り消すには、余りにも慎重さと懇切さに欠ける憾みを免れない。裁判所のために惜しまさるをえない。原審からみれば、事件繁多の現在、いちいち懇切な判決は書けないのかもしれないが、当事者にとっては、一生に一度あるかないかの大事な裁判である。結論もさりながら、一とおりの筋の通った判示をする懇切さが望まれてならない。
理由不備の点について、更に敷衍すれば、原審判決が「参照」としてカッコ書きで挙げた東京高裁の判例は、本件とは事案の様相を異にしているが、もし原審判決がこの判示をみずからの判決理由としたのであれば、上告人としては、これを争わざるをえないし、また、その用意はあるが、如何せん、ただ参照判例として掲げてあるだけなので、上告人としては争いようがない。上告人といえども、その辺の判例の要旨ぐらいは承知しているから、ただそういう先例があると教えていただいても、ほとんど意味がないし、全く同一の論法をとるのなら、原審の言葉で、判決の中で、その取る理論を先例と重複しようがしまいが、堂々と説示してほしかった。それが、裁判というもののあるべき姿勢だろうと信ずる。このままでは、上告人としては、適法な上告理由が書けない。こういう判決の書き方もあるのかもしれないが(上告審と原審では、立場が違う筈である)、これでは、肝心の理由が示されないのと全く同じである。これを理由不備といわずして何ぞや…といわざるをえない。
裁判所は、当事者は、不使用取消の審判を申し立てたり、東京高裁へ出訴し、応訴したりに、どれだけの物心両面の苦労と負担を余儀なくされているか、当事者にとってそれは容易ならぬことであることに理解が薄い感じが、殊に最近、してならない。いまや喧しい国際的にも問題になっている訴訟の促進ということは、(本件における原審もそうである、と上告人は感ずるが)、ただ、そそくさと事件を処理することだけではない筈である、と上告人は思料する。
以上を要するに、原判決は、原審において、上告人が、本件審決は、被上告人(原告)は、所定の期間以内に本件商標をその指定商品について使用をしていることを何ら立証していない旨を認定判断したのであるから、たとえ原審において新たな証拠を提出援用して、所定期間内に使用されていたことを証明したとしても、審決が違法となるいわれない旨主張したのに対し、「商標法第五〇条第二項の本文の規定は、昭和五〇年法律第四六号による改正によって、不使用による商標登録取消の審判を実効あらしめようとする立法の趣旨に鑑れば…」という。(原文そのものの文脈が少しおかしいが、いわんとするところは、要するに、右法条の改正の趣旨は、この種審判を実効あらしめしようとするにあることに鑑れば…という意であろう。しかしながら、右改正の趣旨は、そのような漠然とした包括的なものでないこと、及び、原審は、この法改正の趣旨を何に基づいて理解したか根拠が判示されていない。例えば、国会における政府委員の説明からみて、そう解されるとか、新旧の法文を対比すると、表現において、かくかくしかじかの差があるところからみると、改正の趣旨は、どこにあるとみられるとか、なにがしかの根拠が示されなければ論理的説得力は生まれない。しかも、それが、あとに続く「登録商標の使用をしていることを被請求人(代理人註-商標権者)が証明しないこと」ではなく(代理人註-法文にそう書いてあるのに、そうではないというのだから、全く論理的でない。何故、卒直に読まれないのか、文字どおり読むとどこかに拙いことがあるのか、理解できない。)、「登録商標の使用をしていることが認められないこと」を商標登録取消しの要件とする趣旨にほかならないと解すべきであるという結論に結びつく構成となっているから、その前提となった改正の立法の趣旨が曖昧である以上、その結論も曖昧にならざるをえない。したがって、「新たな証拠を提出援用して登録商標の使用をしている(いたの誤記?)ことを証明することを制限しなければならない理由はない」という決め手となる結論が全く理由のないものになってしまった。第一の土台がしっかりしていないため、第二の構築、第三の仕上げが全く宙に浮いてしまった。典型的理由不備である。さきに触れた別件の判決(参照判決)と比較すれば、一読して明白なように、原判決は言葉を惜しみすぎたため、体をなさない独善となったのである、と上告人は、感じている。参照判例と同じ論理をとりたいなら、はっきりと、原審としての意思を天下に表明すべきである。他人の袖に隠れたような物の言い方は、判決として、何か欠けている、と上告人は思料する。我々の正しいと信ずる考え方によれば、「判決は、常に表現された論理でなければならない」。この観点からすれば、原判決のような孔だらけの表現では、判決としての論理性に欠ける意味において、実質的な説得力をもたない。理由不備とは、このことをいうものである。
また、原判決は、「…とした審決の認定判断は、結論において誤りとせざるを得ないから、審決は違法なものとして取消しを免れない、という(理由二の3)。
「結論として誤り」ということは、理由が正しいという趣旨なのか明らかでない。(おそらく、上告審判判例などで「原判決は、結論においては妥当とすべきである…」というのを誤って見習ったものと推測せざるをえないが)。どうして結論だけが誤りなのか理由が明らかでない。
さらに、結論において誤りであれば、理由が正しくても、どうして審決が違法になるのか、何故裁判所によって取り消されなければならないのか、原判決を見る限り、どうも、その辺のことがはっきりしない。例えば、特許庁が取り調べたと同一の証拠に基づいて、原審が、特許庁とは違った認定をしたとしても、特許庁の上級審でもない原審が、どうして特許庁の認定を誤りとして取り消せるのか。違法でなければ取り消せない筈であるが、どこに違法性があるのか。ましてや別の証拠を持ち出してした認定と違ったところで、どうして、審決が違法になるのか、全く説明がない。そんなことで取り消されては、特許庁としては、たまったものではないように思うが、どうであろう。原判決には理由不備ないし理由齟齬の違法がある、といわざるをえない。しかも、それが、知的財産権関係の専門部として、内外の信用を得ている原審の判決であるだけに、その誤りは、一層厳しく咎められ、反省されるきである。
以上